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2016年 06月 20日

大相場師?!五代友厚と米会所のふか~い関係

ライフプランニング公式ブログ読者の皆さん、こんにちは!
ファイナンシャルプランナーの三次理加です。

さて今回は、堂島米会所の歴史を簡単にご紹介しながら、五代友厚と堂島米会所の関係について解説します。

前回もご説明したように、「世界初の先物取引所」といわれる大阪の堂島米会所は、1730年に幕府公認で設立されたお米の先物市場です。実は1650年頃より、日本一の米問屋である「淀屋」が大阪淀屋橋の南畔にある淀屋邸で開いていた「淀屋米市」にて、組織化されたお米の先物取引が行われていました。淀屋米市は、1697(元禄10)年に大阪の堂島に移転し「堂島米市」と呼ばれるようになります。

ところで、生類憐みの令で有名な五代将軍徳川綱吉以降、幕府財政は急速に悪化。八代将軍吉宗は、財政再建のため「享保の改革」を行います。しかし、この改革では、新田開拓が奨励されたため、市場に出回るお米の量が増え、米価は下落。お米に依存する大名や武士の生活はますます困窮し、「秋なりもの」といって、まだ収穫されていなお米を担保に掛屋(前回参照)から借金をするようになります。たとえば、淀屋の貸付高は、現在に換算すると、将軍家に520億円、諸大名に80兆円!という金額でした。(注)
注:金1Kgあたり400万円として換算

幕府は、米切手の売買や先物取引は、米価の高騰や物価高を招くとして再三禁止。「違反者は死罪」としましたが、効き目はなく、1723(享保9)年には黙認するようになります。

その後、大阪や江戸の商人からの嘆願により、ついに1730(享保15)年、大阪に幕府公認の堂島米会所が設立。設立を許可したのは、「大岡裁き」で有名な大岡越前守忠相、米会所設立を陳情した大阪商人代表は加島屋清兵衛でした。加島屋は、NHK朝の連続ドラマの主人公のモデル広岡浅子の嫁ぎ先です。

1858(安政5)年、日本は220年余り続いた鎖国を解き開国。その後、低品位の貨幣を大量発行したことや、幕末の政情不安等によりインフレが加速。1859(安政6)年から1867(慶応3)年までの8年間における物価上昇は、たとえばお米や大豆が8倍、酒が10倍になる等凄まじいものでした。米会所を「物価高の元凶」とした新政府は、1869(明治2)年、同所を閉鎖してしまいます。

しかし、米会所の閉鎖により価格基準を失った米価は更に高騰。後に大阪証券取引所理事長となった米穀商の磯野小右衛門らの陳情により、1871(明治4)年、新政府は、堂島米会所の再開を許可します。同所は1873(明治6)年には大阪油相庭(そうば)会所と合併し「堂島米油相庭会所」と改称。頭取には、広岡浅子の義弟、加島屋の9代目広岡久衛門が就任しました。

1876(明治9)年、「米商会所条例」が施行されると、磯野小右衛門らは、油取引を切り離した株式会社組織の「大阪堂島米商会所」を設立。この設立の隠れた後援者が五代友厚でした。同所の運営には、自由経済主義・競争原理が取り入れられたそうです。

五代友厚は、堂島米会所を再興しただけでなく、近代的な取引所を設立した人物なのです。その後、五代は、渋沢栄一とともに株式取引所設立に奔走。1878(明治11)年「株式取引所条例」により我が国初の証券取引所が誕生します。ちなみに、この条例は、前述の「米商会所条例」を参考に作られました。

ちなみに、五代友厚には大相場師の一面もあったようです。明治12年末から13年にかけて、米価が騰勢を続け未曾有の高値圏となった際、買い煽る磯野小右衛門一派に対し、五代は貧民救済のためと称して猛烈な売りを浴びせ(=米を大量に空売りした)、見事、相場を売り崩したこともありました。

次回は、「両替商倒産の危機!は、なぜ起きた?」についてご紹介します。お楽しみに!
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by lifeplaning | 2016-06-20 15:18 | 三次 理加
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